平成25年6月24日月曜日

今朝、たまたま早起きをしてテレビを見ていると、ウィンブルドンのテニスの試合中継をしていました。

毎年この時期になると、偶然か必然か、ウィンブルドンの中継を一度は見ます。他のスポーツは一切見ないのですが。

私が見たのは、女子の世界ランキング三位のシャラポワ選手と、世界ランキング百位以下の若手の選手の試合です。(名前は忘れました)

結果は、ランキング百位以下の若手選手が、ランキング三位のシャラポワ選手に快勝するというものでした。

普通なら、そういった試合をみるときは、選手のプレーの素晴らしさなどを、冷静に楽しむものなのでしょうか。

それとも、応援している選手に肩入れして、一喜一憂し、それを楽しむのでしょうか。

楽しみ方は人それぞれだと思いますが、私の場合、テニスをしていたことがあり、いろいろな事を思いだしながら見ていました。

スポーツは素晴らしいものだと思います。

しかし、少林寺拳法などとは全く別物だなとも感じます。

私の場合、長くテニスをさせて頂いていましたが、その中では、精神的な修養は全くありませんでした。

一方、現在指導して頂いている少林寺拳法では、技に関してもそうですが、何より意識の方向性や目的を大切にすることを指導して頂きます。

実際、テニスの試合をしている時の自分の意識状態はどうだったか、思い出してみていました。

調子のわるいときや、負けているときなどの精神状態は、非常に悪かったと思います。

何かのせいにしたり、投げやりになったり、自分を責めていました。

これは、今、少林寺拳法を行っているときに陥ってしまう精神状態と、そこまで変わりません。

けれど、大きく異なるなと感じるのは、調子がよく、勝っているときの精神状態です。

テニスで調子がいいときは、集中力がありましたが、同時に、とても興奮していたように思います。なにより、勝つということ、ポイントをとるということがとても気持ち良かったと思います。その勝つ快感に、すごく興奮していたように思います。

けれど、この「相手に勝つ、ポイントをとる」というような快感は、少林寺拳法では全く味わったことがありません。

では、私の場合、少林寺拳法ではどういう時に喜びを感じるかというと、修練中に、相手としっかり交流ができた時や、道院長の技を見て感動した時です。

スポーツが目的とするのは「相手に勝つ、ポイントをとる」というものです。
一方、少林寺拳法では一言でいうと「自分に克つ」ために修練を行います。

やはり、スポーツと武道の違いは、その目的だと感じます。

敵を外に求めるか、内に求めるかでは、結果は全く異なってくると思います。

今週の修練では、天地拳第一系の相対、突天三、蹴天三を行いました。

今回は、三人で組んで休みなく修練をしていたので、集中できたのですが、身体が疲れて頭がボーッとしてきました。

そんな中でも、自分が少しでも思うように動ければ嬉しいですし、動けなければ悔しい思いをします。

結局は、少林寺拳法では、相手ではなく自分を変えること、自分に克つことを深く指導して頂きます。

久しぶりのスポーツ観戦で、自分の学生時代を振り返ってみることで、改めて「相手に勝つのではなく、相手を感じ、自分を見つめることができる少林寺拳法の良さ」を改めて感じました。

(沙弥 記)

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