平成25年10月28日月曜日

今日は、先日の昇段試験の時に上手くできなかった技の復習と、その他の技の復習を行いました。

今日、指導して頂いたのは、小手抜・天地拳第一系の相対・天地拳第二系の相対・義和拳第一系の相対・押後手です。
また、昇段試験の復習は、諸手送小手を指導して頂きました。

今日、指導して頂いた技の中でも、天地拳第二系と義和拳第一系の相対は、私にとっては特に、正しい形を実践するのが難しい技です。

天地拳第二系も、義和拳第一系も、守者は、相手からの攻撃を受けた後、そのままかんばつ入れずに攻撃をします。その攻撃の時に、順突を行うのですが、この時の順突は腰を正面に向けながら真っ直ぐに入ります。そして、最後に腰を切ってしっかり突きこむのです。

頭では理解しているつもりでも、相対の流れの中で行ってみると、腰をひいたまま上半身だけで突いていたり、腰を切るのが早すぎて最初から斜めに入ってしまっていたりします。

 『腰を入れて、正面から入り、最後に腰を切る』

文字にすれば簡単なようですが、なかなか実践できません。
また、一人でも実践するのが難しいのに、相手がいると、相手の呼吸やタイミングを感じていかなくてはならないので、なおさら難しく感じます。一人では何度も何度もおこなっている天地拳第二系や義和拳第一系が、相対だと全然別物に感じるのです。

 ところで以前、開祖法話で、相対で修練をすることの意義をお話されている話を伺ったのを覚えています。
詳しくは覚えていないのですが、開祖は、基本でも一人ではなく相対でやりなさい、とお話をされたと記憶しています。組手で、相手のことを感じながら修練を行うのが大事なのだと。

 私は、少林寺拳法を始めたばかりの頃は、相対修練が苦手で、基本などの、一人で行う修練の方が、比較的楽だなぁと思っていた記憶があります。それでも、先輩拳士も相対修練の大切さをよくお話して下さっていたので「相対の修練をしっかりできるようにならなくてはならないのだ」と思っていました。

しかし、その、相対修練の意義に関して深く考える機会はあまりなく、ただ、苦手を克服できたらいいな…くらいの気持ちでした。

しかし、何度も参加させて頂いている大会の修練や、昇級・昇段試験をへて、ずいぶんと、相対修練への苦手意識は減ってきました。そして、今年の5月から10月末にかけての、大会と昇段試験の修練を通じて、さらに相対修練への苦手意識はなくなってきたように思います。
そして、苦手意識が減ってくると、だんだんと、相対修練のよさも感じることができるようになってきました。

私は、修練を行う時に、自分のなかで、無意識に指標を決めながら身体を動かしています。明確でない時もありますが、例えば、基本の蹴でしたら、自分の首くらいの高さまで足を上げる、とか、上体がふらついたり後ろにそらない様にするだとか、自分の苦手なところや、くせや、限界などを意識しながら行っています。

これが、相対修練になると、私の場合「相手に技をかける」という一点のみに意識がいってしまいがちです。相手が、技のかかりやすい人であったり、自分のできる技を行うならいいのですが、苦手な技や、全然出来ない技になってくると、「相手に技をかけたい」のに「技がかからない」ということになってきます。

そうなってくると、大げさですが、自分の中で「苦」が始まります。そして、修練は「技ができる」もしくは「技ができない」の善と悪のせめぎあいになってしまいます。難しい技やできない技になってくると「苦」しか感じないので、修練は楽しくなくなってしまいます。

しかし、本当は、終着地点はそこだけではなく、例えば「相手を感じながら技をかける」とか、「自分の身体のどの部分の使い方が間違っているのかを感じる」というところに意識を持っていくと、技は上手くかからなくても(もちろん最後までかけきらなければなりませんが)、相手を感じることができたら、それは自分の中での成功になります。

そうすると、同じように、出来ない技を行うにしても、自分の中での捉え方が変わります。「出来る」を指標とするならば「出来ない」は失敗です。しかし「感じる」を指標とするならば、結果は「出来ない」であっても、感じることができていれば、失敗にはなりませんし、むしろ成功になります。

私は、無意識で行っていた事ではありますが、この指標の設定が下手なのだということに、今回の昇段試験を通じ、気づくことができました。

技ができることが大事なのは大前提ですが、その過程の中で、どの部分に意識をあてて修練を行うかで、修練の質も変わってくるのだと思います。つまり、目標や指標を、自分のレベルに合わせて設定しなくては、出来ないところにばかり目が行ってしまうということです。

もちろん、そのためには、自分がどのレベルにいるかをまずは自覚しなくてはなりませんし、それは、嫌な(?)作業でもあります。

自分は出来ない、と思っていても、それが、どの程度出来ないのかをちゃんと認識し、何だったら出来るのかも分かっていなくてはならないのだと思います。それは、自分を客観的に観るという、大切な作業であると思います。

今回の、義和拳や天地拳第二系の修練でもそうですが、修練中の自分の意識のありかたに意識を払っていくことが、相対で、よりよい修練を行っていく上で重要だと、改めて思います。
そのような事を意識して、自分のレベルをとらえつつ、自分の指標を決め、次回からの修練に取り組んでいきたいと思います。

(沙弥 記)

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