平成26年3月31日月曜日

今日の修練では、「片胸落」「両胸落」「伏虎地二」を指導して頂きました。
「片胸落」「両胸落」を行っている時に、道院長から助言して頂いたのは、「攻撃がただ決められた攻撃をするのではなく、頭突きをしたり、押し倒したりと、本気で守者を倒しに行くという形で修練をする」という事でした。

確かに、決められた技を行うのと、何をされるか分からない状態で技を行うのとでは、同じ技をするにしても守者の心構えが全く違ってきます。

また、次に指導して頂いた「伏虎地二」では、身体全部を使って、相手の回し蹴りを避けに行くことを指導して頂きました。
特に、後ろに左足が残っていたり、手だけで受けに行くのではなく、思い切って全身で受けに行き、相手の蹴りを完全に止めるのが大事であるとの助言を頂きました。

今日、指導して頂いたことで全体的に印象に残ったのは、相手がどう出るか分からないのだから、決められている動きをただ行うのではなく、自分の出せる限りのものを使って、技をかけにいきなさいという事です。

それは、言い換えれば「もっと必死になりなさい」という事かもしれません。

ところで私は、少林寺拳法を行う時に「何故、人を殴らなければならないのか」「何故、人に殴られなければならないのか」という疑問は、常に頭の中にあります。「そんなこと、武道を修練する時点で、考える方がおかしい」と思われる方もいるかもしれませんが、私の中では、大事にしたいテーマの一つです。

例えば、少林寺拳法の技にしても、出来る、出来ないに拘ってしまうと、人によっては得て不得手があると思います。私などは技のうまい下手以前に、「武道をする」ということ自体が、本当に苦手だな、と今でも思います。

だから、武道は得意な人、上手な人がいきいきとやるべきで、私みたいな苦手な人は、何とかついて行くことが関の山なのだ…、という意識が、根底にあります。

けれど、今日の修練で感じた事があります。

それは、武道というのも「自己表現の一つだ」という事です。先にも書いたように、必死になると、それまで出ていなかった素の自分が出てきたりします。

その、素の自分を、身体を使って表現するのが、武道を行う意味の一つなのでは、と、思うようになりました。

つまり、下手でも的外れでもいいから、とりあえず、自分の中にある、自分なりの少林寺拳法や自分なりの動きを、表に出して身体で表現する事が大事なのではないかという事です。

だから、もっと言えば、そこには正解・不正解や、上手下手はないのでは無いかとも、思うようになりました。

もちろん、理に則っているとか、技の正しい・間違っているはあると思います。そしてそれは、道院長や先輩拳士に指導して頂いて、素直に直していかなくてはならないところだと思います。

けれど、武道のだいご味は、上手に技をかけることではなく、上手に自分の中のものを表現することなのではないかというように思うようになりました。

その観点で行くと、自分の中をいかに上手に体現することが大事であって、技ができないことにそこまでこだわらなくても大丈夫だという事になります。

もちろん、自分の中を体現することが、結局は、技の上達に一番近づく道なのだとは思いますが。

そして、素の自分を引き出すためには、やはり、厳しい攻撃をして頂いて、必死になるのが一番の近道のようにも思います。だから、お互いに決められた通りの動きをしても、本当の上達のためには、足りないのだと思います。そういう意味で、本気でかかっていくとか、殴る、殴られる、という事が、自己表現を引き出す手段になるのだと感じます。

そこに、武道の良さというものがあるのではないかと、最近は感じるようになりました。

「技が出来る、出来ない」という点ではなく、「きちんと自分を出し切れているか」という点に注目して、修練を行っていけば、自ずと技も変わってくるのではないかと思うので、自分の意識の置き所に注意して、修練に取り組んでいければと思います。

(M拳士 記)

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