平成27年3月16日月曜日の修法記

合掌

①基本
②胴突蹴
③受身…逆突、逆蹴
④鉤手で吸収して、相手を倒す
⑤鉤手で吸収しながら目打を最短で打ち、相手を倒す
⑥先述の鉤手と目打をつかって、逆小手を決める
⑦逆小手裏固を行う。裏固の時、攻者の背中に座り、肩がきまり、からだ全体が決まるポイントを探す。

今年にはいってから、道院長にご指導して頂く時にいろいろと考えてしまうことがあります。
本当は、何も考えずに集中して指導を受けるべきなのかもしれませんが、自分の中からわき上がってくるものなので、否定せずに、向き合っています。
考えること、とは、以下の2点です。
1、道院長に教えて頂いていることが何の役にたつのか
2、道院長のされている動きは、女性がすると仮定して、不自然ではないか(私が女性なので)
ということです。
2の、「女性がやるとして…」ということを考える場合は、見た感じで感覚的に判断します。違和感がなければ何も考えずにやりますし、違和感があれば、道院長のされていることの本質を自分なりに考えて、本質だけをイメージして、あまり無理せずやるようつとめています。
1の「教えて頂いていることが何の役に立つのか」というのは、たとえば、今日の修練でしたら、⑤の「鉤手で吸収しながら目打を最短で打ち、相手を倒す」というのなら、「何のために最短で相手に目打ちをいれるのかな?」とか「相手に最短で入ることで、自分に何の得があるのかな?」とか「相手にとって、最短で入られることがどんな意味をもつのかな?」…などです。
道院長は、相手を倒すための少林寺拳法を教えてくださっているわけではありません。では「何のためにを教えてくださっているのかな」と、思うのです。
ところで、少林寺拳法を行ううえで得られる三得として、護身練鍛、健康増進、精神修養、というものがあります。それは、本当に大切なことであり、少林寺拳法を続けるうえで得られるかけがえのない財産だと思いますし、実際に修練を続けるなかで、自分の中で育ちつつあるものだと確信しています。
けれど、私が少林寺拳法を始めたのは、少林寺拳法自体をやりたいというよりは、道院長にひかれて、というのが実際です。
なので、道院長個人が少林寺拳法を通して、何を教えようとしてくださっているのかな、という事を考えるのは、私にとっては大事なことです。
話を元に戻して、今回の修練で教えて頂いた、「鉤手で吸収しながら目打を最短で打ち、相手を倒す」というのが、何の役にたつのかという事を、私の言葉で表してみたいと思います。
「最短で相手を倒す」というのは、つまりは「まっすぐ相手に影響を与える」ということだと思います。その「まっすぐ相手に影響を与える」というのは、言い換えれば「相手としっかり交流する」ということではないかと思います。
ところで、道院で相対で修練を行うとき、技を何度行っても、自分も相手も形通りに行っているだけであまり交流していないな、と、感じることがあります。また、相手に合わせて、こちらが我慢しているな、という時もあります。また、日常生活で人と過ごす時でも、たくさん話をして、長い時間を過ごしても、その実、あまり交流できていないと感じることがあります。
もちろん、目に見えない部分では、一緒にすごすだけで、知らずに影響を受けたり、交流していることは、絶対にあると思います。
けれど、目に見えない部分や無意識ではなく、自分の意識できる範囲でものを考えたとき、道院でも日常でも、同じ時間を過ごしても、しっかり交流できる時と、あまり交流できていない時があると感じるのです。
それは、こちらの意図や体調、タイミングや間合いなど、いろいろなことが合わさってそうなるのだと思いますが、それ以前に、「交流の質」というものがあるような気がします。
これは私個人の感じることなのですが、タイミングや間合いをはかる以前の、自分自身がもともと持っている「交流の質」という意味です。
たとえば、幼少の頃から親とのコミュニケーションがうまくいかない状態で、それが「交流の質」として自分に組み込まれているとします。すると、とれだけタイミングや間合いを上手にコントロールしても、自分が知っている範囲のなかでの「交流の質」を変化させることはできても、自分の知っているもの以上にはなかなかならないと思います。
そして、自分自身がもっている、もともとの自分の質をかえるには、結局、自分より深い質を持っている人に、指導して頂くのが一番最短だと感じます。
私は今回「鉤手で吸収しながら目打を最短で打ち、相手を倒す」という修練を通じて道院長に教えて頂いたのは、「相手としっかり交流する」ひいては、「自分の交流の質より一段うえのものを体感する」という事なのかなと思います。
捉え方は人それぞれだと思うのですが、私はそのように感じ、受けとりました。
「相手を倒すために鉤手をして目打ちをいれる」となると、私は別に相手を物理的に倒したいとは思わないので、修練は苦痛になってしまいます。しかし、「深く交流する感覚をつかむために、最短で相手に深く入る鉤手と目打ちをする修練」となると、ヤル気がわいてきます。
人と交流するというのは誰にとっても必要不可欠なことだと思いますが、その縮図が、少林寺拳法の相対修練に出てくると思います。いろいろ考え、好きになる努力をしながら、少林寺拳法の修練を続けていけたらと思います。
今回も、読んでいただいてありがとうございました。

結手

(村井仁美 記)

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