平成27年10月26日月曜日の修法記

本日は基本を行った後、級拳士との相対と道院長からはBBCを使った動きを教えて頂きました。

先輩拳士からは以下のように教えて頂きました。
流水蹴
誘う時は顔を出さない。前体重になるだけ。レの字立ちの足幅は少し広めにする。
内受突
足の位置をなるべく変えずにその位置で受ける。よけようとして外に出すぎたりしない。
両手寄抜
まずは、鍵手になること。肘は期門に付け脇が開かないようにします。
そして、持たれた所を動かすのではなく、肘を出し手掌を下向けに抜きます。
片手巻抜
守者が押されて相手の裏に入った時、相手の肩が前に返っているかをみます。

道院長からは以下のように教えて頂きました。

手を引いているように見えるけれど、引いているのではなく、相手に入っているのです。
手を持たれて、力で押したり引いたりするのてはなく、その手に寄ってゆく。すると相手は倒れてしまう。
手を取るのではなく、気持ちを取りにいく。
逆小手
あえてこちらが「ごめんなさい」と手首に寄るようにして負けに行く。するとぶつからず何故か相手が倒れる。勝とうとするから自分の手が痛くなるのです。

(考察)
物事には表と裏があり、両方を見なさい。とおっしゃっていた意味がここにも繋がってるなと思いました。
道院長が相手を崩すとき、一見、力で倒しているように見えます。これが表だとします。しかし、自分が技をかけて頂くとぶつからない上に一体感があり何とも言えない心地よさがある。遠ざかるのではなく、近づいて受け入れられるから倒れてしまう…これが裏なのです。
私は昔は表を見てあの形をするんだというように理解して思います。もちろん、形は大切です。しかし技という視点で見ると同じ倒すという現象でも倒された感覚、倒す時の感覚に違いがあるのです。痛めて取るのか、痛めず心地よく調和して技をかけるのか。
「手を取りにゆくのではなく気持ちを取りにゆく」と教えて頂いた時、形だけでなくその根底に流れているものを感じたりする感覚も大切にしないといけないのではないかと思いました。私はどちらかと言うと、感覚的な人間です。でも、それは普段はあまり役立たない、余計なものな気がしていました。また、そう教えられてきた記憶が強いです。1+1=2でそれ以外の答えはないというようなどちらかと言うと答えは1つしかなく、答えが出たらスッキリするというようなものです。しかし、感覚はハッキリした答えなどはなく、何となくあるものです。
私は技をかける時などもその感覚的な部分が失敗の元になっている気がしていました。
しかし、今はそのどちらも大切で、同じような現象でも根底に流れているものが違えばその後の感覚や結果が違ってくるのだと分かります。表だけでなく裏をみようとする…すると世界も広がるのではないでしょうか。
本日の修練では、感覚的な部分も大切にしていいのだと気付きを頂きました。この気付きをまた日常にも活かしてゆきたいです。

(井上恵以子 記)

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