平成29年1月16日月曜日の修法記

本日の修練は、私は途中から遅れて参加させて頂く形となりましたので、内容が途中からの文章となりますこと、誠に恐れ入りますが御了承願います。

本日の修練は、横田道院長指導による講義と易筋行でした。

「少林寺拳法で育てるものは感性です」

横田道院長はそう話し始めました。

「分かりやすい例が塚原卜伝です。塚原卜伝の弟子は多少腕のたつ武道家でした。この弟子はよく、偶然出くわした暴れ馬の後ろについて歩き、不意に蹴ってくる馬蹴りを避ける事で自身の武術の技術の高さを誇っていました。が、そんな弟子を塚原卜伝はまだまだ修行が足りないと感じていました。それはなぜか。人生で大切な事は、無難である事だからです。塚原卜伝の場合は暴れ馬さえ出会わないルートを意図せずとも何かを感じて自然と歩いてしまうからです。つまり、弟子のように技術の高さを誇る意識は暴れ馬のような問題と出会う意識と常時繋がります。その意識は無難ではなく、人生が多難になってしまうからです。少林寺拳法の修行も同じです。技術を求めて行く先をみないといけません。相手を倒す技術だけならば、格闘技となんら変わりません。極意とは、意識を極めると書きますね?極技とは言わないわけです。貴方達は極意か極技のどちらへ向かっていますか??」

そして話は深くなり、

「人の意識は顕在意識が4%、残りが潜在意識です。潜在意識は集合的無意識と宇宙意識に分かれます。宇宙意識は実は宇宙全体の意識と繋がっており、つまり皆と繋がっていることを表しています。しかし、その顕在意識の4%しか使わずに人生を棒に振って生きている人が多くいます。顕在意識の4%とは、計算、分離、分ける意識が強く働くため、人種差別、国境、争いを作りやすくします。私達は96%にアクセスする回路を開発しなければ、本当の世界平和を目指す事は難しいでしょう。つまり少林寺拳法での感性を養うとは96%へアクセスし、分離や争いの意識、戦意を喪失させる事を指すのです。その感性を育てる修練をこれから提案します。」

まずは二人一組になり、いつも行なっている寝ている相手を起こす修練から行いました。
そして次は座位での修練です。
二人一組になり、片方が相手の人指し指を握りもう片方の手で互いに手を合わせます。その状態で相手を倒そうと手や腕を使っても相手を崩すことは出来ません。そうではなく、手を動かさずに自らが寄ることで相手を崩すというものでした。先輩拳士にしてもらうと、相手が寄ってきた時に、自分の倒れまいと構えている力が吸い寄せられる感じがして、そしてそのまま流れるように崩れました。
この寄るのが難しく、寄っているつもりがどうしても腕や手の力が入ってしまいます。なので相手との力の衝突になってしまっているだけで何もうまくいきません。ですが相手に寄られると、自分の力が相手に引き寄せられる感じを感じることができました。

その修練の途中で横田道院長がまた話始めました。

「相手にこちらから寄る事で相手の状態が変わります。相手をこちらへ寄せるのではありません。少林寺拳法の鈎手は寄る事の訓練です。こちらから歩み寄る事で、相手の戦意を喪失させる事が大切です。相手を殴って気絶させる事は本当の戦意の喪失ではありません。意識が回復すれば、相手もいつか向かってくるのですから。自他共に争う気持ちが無くなる事が大切です。」

もちろん道院長の話のようには上手くできず、私の鈎手は力を入れ踏ん張っているような鈎手になってしまいます。なので相手の掴む力も強くなり、鈎手をしている手が痛くなるという状態になってしまいます。つまり、お互いに戦意が喪失していない状態です。

しかしその後、組手主体で何度もお互いに掛け合う中で、自分から寄る事で相手の力が喪失するような感覚を感じることが出来たので、そのイメージを大切に持ちながら少しづつ普段の修練に、日常に活かせるようにしていきたいです。
有難うございました。

(西岡 大介 記)

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中