令和元年9月5日木曜日の修法記

9月5日木曜日の修練では、少年部の一級昇格試験を行いました。今回考試員を担当いたしました。

 試験は日頃の修練の結果ではありますが、ままならない級拳士、まして少年部の拳士の試験結果の是非には、指導側にも大きな要因があるものと考えております。今回は、拳士が一級の合格水準に到達しているとは言い難く、断腸の思いで不合格・再試験とさせていただきました。振り返ってみると、普段の指導の結果が映し出されている点が多いと言わざるを得ず、責任を感じます。
 道院長に報告した時に、以下ようなお話をいただきました。

「彼らが何を考えて修練に臨み、何ができていて、何ができていないのか。技は伝えて初めて自分のものになります。技だけではなく、人生全般、形にしていくためには何をするべきか。机上の空論では何の糧にもなりません。彼らを通して、自分自身のあり方を常に自問してください。それが<実>の修行です。」

 今回、技の細かい部分以上に特に氣になったのは「構え」「残心」「間合」「氣合」「運歩」「引手・引足」など、動作の間隙の意識が散漫な点でした。当日、少年部の二人には、「形をなぞってできるようになることは当たり前だが、それだけでは何の意味もないので、心を感じること(相手の心を見ること、自分の心を通すこと)を意識して諸々に臨んでもらいたい」と伝えました。それが感性であり、感性が認識の違いになり、認識が人生をつくるという思いからです。
 しかし、自分自身でもそう言いながら、少林寺拳法という具体的な形のあるものから、心や氣といった無形の何かに繋がっていくことをどう伝えていくのかなど、いまいち自分自身でも具体的に言葉でイメージできていないことを思いました。後日、道院長にその思いを話すと、以下のようなお話をいただきました。

「何よりもまず、皆が皆氣合が小さい。それは上の者もそうです。当身でも、この一撃で相手を殺せるというような氣合をもって行うのです。触れた場所から相手の背骨を全て引き抜いてしまうような氣合をもって行うのです。これは、別に当身に限った話ではなく、日常生活でもなんでも、そういう意識を持って行えば何だってできるのですよ。」

 普段の指導でも、それがルーティンワークになってしまっては何の発展性もありません。道院長が「彼らを通して、自分自身のあり方を常に自問してください」とおっしゃったのは、そのことをおっしゃっていたのだろうと感じました。
 道院長は「ままらない状態で行うからこそ、人間は潜在的な能力を発揮できる」と常におっしゃっていますし、それを体現されています。無意識に安定に向かおうとする自分自身に気づき、そこから離れて、常に発展性のある方向にベクトルを向けていきたいです。

(梅田 海来 記)